タナトフォビア(死恐怖症)

「タナトフォビア」という言葉があります。それは、死について考える時に引き起こされる不安症のことで、時には日常生活にも支障をきたす程の恐怖にさいなまれることもあるようです。これは、特殊な症状ではなく、突然癌の告知を受けたり、身近な人の死に触れたりすれば、誰でも感じる恐れです。また、病気の人や高齢の人だけが感じるものでもなく、若い人であっても死について考える機会があれば、やはり同様に恐れを感じます。なぜ恐れを感じるのでしょうか。死ぬときの痛みが怖い、とか、親しい人たちと別れるのが辛い、などももちろんあるでしょうが、最も大きな理由は「死後にどうなるのかが分からない」ことではないでしょうか。しかし、どれほど恐ろしくても私たちは死を避けることはできません。私たちの人生は最後に必ず、この恐ろしい、考えたくもない「死」という門を通ってその先の世界に旅立つのです。

死よ、お前の勝利はどこにあるのか

では、この死の恐怖に打ち勝つ方法はあるのでしょうか。それは、自分が死後にどこに行くかをはっきりと知ることです。歴史上、そのようにして死の恐怖に打ち勝った人たちがいたのです。例えば1世紀から3世紀にかけてローマ帝国がクリスチャンを迫害したことは有名な史実ですが、クリスチャンは迫害によって殺される時も恐れることなく信仰を保って殺されていきました。その死をも恐れない喜びと平安を見た多くの人がイエス・キリストを信じたので、殺しても殺してもクリスチャンの数は増えて行きました。少なくても70万人、多ければ200万人ものクリスチャンが殉教しましたが、クリスチャンを絶滅させることはできず、結局ローマ帝国がキリスト教化する結果となったのです。また、タイタニック号が沈むときにも、多くの人が何とか生き残ろうとして救命具を奪い合う中、キリスト信者たちは讃美歌を歌い、人々が落ち着けるように努めました。彼らはなぜ死を恐れなかったのでしょうか。それは、自分の罪が神に赦されていること、死んでも必ず天国に行けることを確信していたからです。

「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」…しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(1コリント15:55-57)
上の聖書の御言葉は、1世紀にクリスチャンたちが互いに励ましあっていた言葉です。何と力強い、死に対する勝利でしょうか。彼らは罪が赦されていることを確信していました。あなたはどうでしょうか。
「神の御前にあらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」(へブル4:13)
全てを見ておられる神様の御前に罪を犯したことのない人など一人もいません。死後、私たちは何と言って神様に申し開きができるでしょうか。罪の赦しを得ていなければ、神様にさばかれ、永遠の地獄に行くしかないのです。しかし、神様は私たちを愛し、天国への道を与えて下さいました。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3:16)
クリスチャンたちが死を恐れなかったのは、イエス・キリストが彼らの罪を背負い、死んで下さった真の神、救い主であることを確信していたからです。イエス様は十字架の上で私たち全人類の罪を背負い、私たちの身代わりに罰を受けてくださいました。そしてその救いが確かであることを示すために死後3日目によみがえってくださいました。ですから、このイエス様を信じる者は罪赦されて、天国に入ることができるのです。あなたも死に対する勝利、救われた喜び、永遠の天国に入る特権を手に入れてください。
主イエス様を信じるならば、それらは与えられるのです。