神による創造

創造者

 私たちがモノを見る時にいつも使っている「目」、皆さんはどうして「目」でモノが見えるかご存知ですか。私たちは、子どもの頃から、毎日ずっと「目」を使って見ていますので、「目」でモノが見えるのはごく自然のことと思っている人もいるかもしれません。しかし「目」の仕組みを少しでも調べると、これは全く自然ではなく、ものすごく精密に良く出来た機械のようであることが分かります。

私たちがモノを見ると言っても、実際にはモノに当たった光の反射を見ています。

その光はまず黒目の中央にあいている穴(瞳孔)から入り、カメラの絞りの役割をする虹彩で光の量が調節されます。次にピントを調節する水晶体で屈折し、網膜で焦点を結びます。網膜は光の波長を電気信号に変え、その信号が視神経を通じて脳に伝達されます。脳は電気信号を映像に変換してモノを見ることができるのです。

光量の調整、ピントの調節、電気信号への変換プログラム、正確な伝達経路、映像への変換プログラム、これらの各器官の働きは、どれも完全に機能しなければ、一つでも不完全であれば、何一つモノを認識できません。

さて、ここで一つ考えていただきたいのです。

これほど複雑な仕組みを持つ「目」はどのようにして成り立ったのでしょう。

見たいという意志もないただの物質群が、長い時間をかければ、結果として見えるようになる器官を産み出すなどと考えるには、進化論に対する相当の信仰が必要です。むしろ光の性質を知り、それを受け取る器官を完璧に設計し創造された御方がいらっしゃると思いませんか。その創造者こそ聖書の語る「神」です。神は私たちの「目」だけでなく、私たちを、またこの世界の全てを造られた御方なのです。

罪人への裁き

神が人間を造られた目的は、もちろん愛を注ぐためです。ですから人間の本当の幸せは、神を知ることです。

しかし実に多くの人が神を無視し離れています。「神が存在するとしても私の人生には関わらないで欲しい。私は神に縛られずに自分の好きなように生きたいんだ。」と考えています。そして神を無視して好きなように生きた結果、自分の欲望を追求するしかなくなり、人は罪に対する感覚が鈍くなって、自分の都合ばかり考えていがみ合い、欲求を抑えられず人の物を欲しがり、がまんができなくなって奪い取る人もいます。また自分の考えに合わない人をののしり争っています。

神は正しい御方ですから、どのような小さな罪であっても必ずお裁きになります。聖書にこう記されています。

「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。数々の書物が開かれた。書物がもう一つ開かれたが、それはいのちの書であった。死んだ者たちは、これらの書物に書かれていることにしたがい、自分の行いに応じてさばかれた。…いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた。」(黙示録20章12、15節)

神を無視して生きた人は、死後に神の前に立ち、生きていた時に犯した罪のさばきを受けるのです。そして地獄と呼ばれる火の池に投げ込まれ、永遠に焼かれ苦しみ続けるのです。

あなたはこの地獄から助かりたいと思いませんか?ここから救われる方法がたった一つだけあります。

救い

神は聖なる正しい御方ですから、人間の罪を必ずさばかれます。しかし、神は、そのご性質が愛ですから、罪人をも救いたいと願っておられるのです。そのため、神はご自身の愛する御子を人としてこの世界に遣わされました。その御子とはイエス・キリストです。

イエス・キリストはすべての人の罪を背負い、私たちの身代わりとして十字架に釘付けにされました。そして全人類が受けるはずだった罪の裁きをすべて受けてくださったのです。そして神はイエス・キリストを死後3日目によみがえらせました。よみがえられたイエス・キリストは、多くの弟子たちにご自身を表して下さり、確かに肉体をもってよみがえられたことを確認させてくださいました。

そして、復活から40日後、弟子たちの見ている前で、天に昇って行かれたのです。このイエス・キリストを、罪の裁きからの救い主として信じ、心に受け入れる人は、罪の赦しを受けて、地獄から救われるのです。神は、その人の罪の裁きはイエス・キリストによって完全に終わってしまったと見てくださるのです。

 人を造られ、今日も生かしてくださっておられる神を無視し、自分の好きなように生きてきたことが間違いであったことを認めて下さい。神の前にへりくだり、救いを神に求めてください。そして十字架にかかって死なれたイエス・キリストを受け入れてください。神は、その人を神の子どもとし、天国にまで導いて下さいます。

「神は、実に、そのひとり子〈イエス・キリスト)をお与えになったほどに世を愛された。それは御子〈イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3章16節)

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