「死に打ち勝った小野さん」

「死は勝利に吞み込まれた。」
「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。
 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」
(新約聖書 コリント人への手紙第一 15章54節~55節)

「こんな顔でごめんね。」

これが、病院にお見舞いに来た人に、彼女がいつも言うことばでした。小野さんは、がんになって以来、笑顔を見せることがなくなっていました。病状は日に日に悪化し、死への恐怖と不安で心はいっぱいでした。小野さんは末期のがん患者として病院の緩和ケア病棟、いわゆるホスピスに入院しました。

ところが同じ病棟に、他の患者たちとは全く違う雰囲気を漂わせているひとりのがん患者がいました。右田さんというその婦人は、やはり末期のがんで、緩和ケア病棟に入院していました。違う雰囲気と言っても、他の人より元気であるというのではありません。病と闘いながら、病状が悪化して行き、つらく苦しいのは変わりありません。けれども、右田さんの顔には、何とも言えない落ち着きがあったのです。

小野さんは右田さんに尋ねました。「あなたはどうしてそんなに安らかなの?」右田さんは答えました。「私はクリスチャンなんです。もしものことがあっても、天国に行けるという希望があるんですよ。」右田さんの病室には、彼女の通う教会の牧師が訪問し、聖書から励ましのことばを語っていました。「あなたも一度聖書の話を聞いてみませんか?」右田さんにそう言われて、小野さんは関心を持ち、話を聞いてみることにしました。

病院を訪れた牧師は、聖書から話をしました。私たち人間にいのちを与え、生かしておられる神様が存在されること。死は人生の終わりではなく、死の向こうに天国と地獄があること。罪ある私たち人間は、このままでは天国に入ることができず、罪の罰を地獄で受けなければならないこと。しかし神様は人間を愛してくださり、救い主イエス・キリストをこの世界に送ってくださったこと。

キリストが私たちの罪のために、身代わりとなって死んでくださり、葬られた後、死に勝利して復活されたので、だれでも自分の罪を認め、キリストを信じるなら、罪がゆるされ、天国に入れていただけることを、小野さんは病院で初めて聞いたのです。

聖書の話を何度か聞く内に、小野さんはイエス・キリストを、彼女の罪のために死んでくださり、三日目に復活された、神また救い主と信じました。するとどうしたことでしょう!彼女の心は罪をゆるされた喜びと、天国に行くことができるという希望で満たされたのです。病気になって以来、一度も笑ったことの無かった彼女が、笑顔に変わりました。キリストを信じた後、わずか一ヶ月の短い時間でしたが、小野さんはクリスチャンとしての生涯を全うし、喜びと平安の内に天に召されました。

さて、聖書はこう語っています。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」私たちは生まれてきた以上、いつか必ず死を迎えなければなりません。

そして、罪を憎んでおられる正しい神の前に立たなければならないのです。神によって生かされ、神から多くの良いものを与えられてきたにもかかわらず、その神を認めず、人間の手で作った偽りの神々に、自分勝手な欲望を願い求めることは、最も大きな罪なのです。その罪の罰は永遠の地獄において、受けなければなりません。

私たちに必要なのは、創造主である神を認めないで生きてきたこれまでの人生が、間違いであったことを認め、悔い改めて、キリストを信じて罪のゆるしを得ることです。人間の考え出した宗教は、これを拝めば病気も治るなどと言いますが、たとえ病気が治ったところで、死が少々先延ばしにされただけのことであり、死の解決ではありません。しかも、病気が治りたければもっと金を出せ、等というような教えは、金目当ての宗教ビジネスに過ぎません。

本当の神様は、あなたを愛しておられます。あなたの罪をゆるして、神の子供にし、ともにいつまでも生きるものにしたいと願っておられるのです。あなたに必要なことは、イエス・キリストをあなたの神、また救い主と信じる信仰です。どうか、神の救い、永遠のいのちを無償で受け取る方となってください。

「御子を信じる者は永遠のいのちを持っているが、御子に聞き従わない者はいのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(新約聖書 ヨハネの福音書 3章36節)

注:登場人物の名前はプライバシーに配慮して仮名にしていますが実話です。

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