私は小さい頃から母に連れられて教会に行っていました。小さい頃から日曜学校で福音を聞いていて自分はイエス様を信じていると思っていました。しかし、時々本当に私は救われているのだろうかと自分自身疑うことが何度かありました。その度に教会に行ってるからきっと救われているだろう大丈夫だと安心させている自分がいました。

高校の頃になると修学旅行が日曜日であったり、就職活動で採用が決まった後に就職先が日曜出勤があることが分かったなど日曜礼拝の問題が多々ありました。その頃私は熱心と言うほどでもありませんが割と熱心な未信者だったで、修学旅行も行かず就職も決まっていたところを辞退しました。今思えば、礼拝を優先する思いではなく周りの目を気にして特に母の目を気にして修学旅行、就職を辞退したのです

日曜日礼拝を優先するようにしておけば、周りからいろいろ言われることはない、特に母を悲しませることはないと思っていました。神様と自分との問題ではなく、周りの目特に母と自分との問題と考えていました。

それから高校を卒業して、社会に出ると次第にこの世のことに目がうつり出しました。

 礼拝にはかろうじて行っていましたが、行くのも神様を礼拝するという目的ではなく、行かないと周りの目もあるし、母に何か言われるという思いから行っていました。 しかし次第にこの世を楽しみたいという思いの方が大きくなっていきました。

そして、ある時私は爆発しました。

もう教会は二度と行かない。自分が好きなように生きるといい家を飛び出しました。まさに放蕩息子と同じ人生の始まりでした。自分がこの世でやりたいと思うことをとことんやりました。この世を楽しむ為にお金を使い、時間を使い、からだを使いとことん好きなようにしました。放蕩息子は豚飼いの仕事をするまで落ちぶれましたが、私はそれ以下まで落ちぶれました。放蕩息子以下の者となりました。

家を飛び出した間もお母さんは福音を伝えてくれました。神様を恐れる気持ちはないのと何度も言われましたが、神様を恐れるって何?という今思えばとんでもない事を平気で言っていました。

そしてこの世を楽しんだ結果本当に痛い目にあったのです。

教会を離れて6.7年程経った時、教会に行く機会が与えられました。妹が結婚し岡崎に行きました。そして甥っ子が生まれて会いに行く為に岡崎に行くことになったのです。その時妹が金曜日の夜に教会で学び会があるから行かない?と誘ってくれました。最初は嫌だなーと思いましたがせっかく岡崎まで来たからと渋々行きました。集会では久しぶりにお会いした牧師先生がはっきりと福音を語ってくださり、兄姉も救いのために祈っているねと言って下さいました。この時から神様は私の岩のような心を少しずつ開いて下さいました。

それから数ヶ月ごとに岡崎に行った際には教会に行くようになりました。その度に牧師先生ははっきりと福音を語ってくださいました。先生には自分が神様だったら私をとっくに裁いてると言われましたが本当にそうだよなーっと自分でも思う部分がありました。 神様の主権を認めて神様に白旗をあげるべきだとはっきり言ってくださったのを今でも覚えています。

それから熊本の教会にも講師の先生が来られる度に行くようになりました。突然飛び出した私を当時の熊本の教会の牧師先生やみなさんが温かく迎えて下さいました。毎回福音を語って下さいました。メッセージが終わるたびに礼拝堂の隣の部屋でフォローしてくだり、信じるかといつも言って下さいました。

私はなかなか受け入れる事が出来ませんでした。

しかしある時神様が心を全開に開いて下さったのです。地獄からの救いの問題は神様と私の問題なんだ、今まで自分は神様の絶対主権を認める事なく、神様の前に本当の悔い改めが出来ていなかった事がはっきりと教えられました。またイエス様は私の犯したたくさんの罪の罰を十字架上で代わりに受けて下さり死なれ3日目に蘇ってくださったことをはっきりと信じました。

そして、9月29日伝道集会でこれ以上神様に逆らうのは無理だと白旗をあげました。放蕩息子の父親が放蕩した息子を暖かく受け入れてたように、神様も放蕩した私を大きなご愛で迎え入れて下さったのです。神様のご愛、恵み、イエス様の十字架に心から感謝しました。帰りの車の中で「すんばらしき主イエスの愛」を歌いながら帰ったのを覚えています。

そして今、このような者を神様は、神様を礼拝する者として下さいました。また神様に奉仕する者として下さったことを心から感謝致します。また今日はっきりと自分の信仰を皆さんの前で告白する事ができ感謝致します。これからも神様の為に生きる者として下さった事を感謝し、神様に仕えていきたいです。